捨てられていた米が主役になるまで ― 寿司2000年の物語

プロローグ:一貫に眠る2000年

カタン、カタン。

回転寿司のレーンを、マグロの一貫が流れてきます。艶やかな赤身と、口の中でほろりとほどけるシャリ。

けれど、この小さな一貫が今の姿になるまでには、2000年を超える長い旅がありました。その旅の始まりでは、主役であるはずの「米」が、誰にも食べられることなく捨てられていたのです。

さあ、時計の針を大きく巻き戻してみましょう。

※寿司の起源や考案者には諸説あります。ここに描く情景には想像も交えています。一つの物語としてお楽しみください。

第1章 山の村の秘密 ― 米は「捨てるもの」だった

雨季の川で魚を獲り、米と一緒に壺へ漬け込む山の村の人々

はるか昔、東南アジアの山あいの村。

雨季の川は、銀色の魚であふれていました。網を引けば、いくらでも獲れます。けれど村人たちは知っていました。この恵みは長く続かないことを。

乾季になれば川はやせ、魚は姿を消します。しかも暑い土地では、獲った魚はたった一日で傷んでしまうのです。

「この魚を、なんとか先の季節まで残せないものか」

そこで生まれたのが、ある不思議な知恵でした。魚に塩をまぶし、炊いた米と一緒に壺へ詰め、じっと待つのです。

やがて米はぶくぶくと発酵を始め、酸っぱい匂いを放ちます。その酸が、魚を腐敗から守る鎧になりました。何か月もたって壺を開けると、魚は酸味をまとい、長持ちする保存食に変わっていたのです。

これが寿司の原点、「なれずし」です。

ただ、壺から取り出されたのは魚だけでした。ドロドロに溶けた米は、役目を終えると捨てられていったと考えられています。

魚を守り抜き、自分は誰にも味わわれずに消えていく。寿司の歴史は、そんな「米の献身」から始まったのです。

第2章 海を渡った保存食 ― 都へ届く、選ばれし者の味

鮓を背負って平城京へ向かう人々

この知恵は、稲穂とともに旅をしました。大陸を渡り、海を越え、やがて日本へ。

時は奈良時代。都・平城京へ続く道を、荷を背負った人々が黙々と歩いていました。その荷の中には、各地から納められる「鮓(すし)」があります。

718年にまとめられた「養老令」には、アワビやイガイの鮓が、税として納める品の一つに記されています。寿司は、庶民の口には届かない、朝廷のための貴重な品でした。

その味の記憶は、いまも琵琶湖のほとりで息づいています。ニゴロブナを塩と米に漬け、長い時間をかけて発酵させる「ふなずし」。鼻を突くような強い香りは、千年以上前の寿司が今に残した、いわば「生きた化石」なのです。

第3章 「もったいない」の反逆 ― 生成と早ずし

発酵した米を捨てる手を止める室町時代の男

時代は室町時代へ。人々の心に、ある疑問が芽生えます。

「なぜ、この米を捨てなければならないんだ?」

腹をすかせた人々にとって、目の前で米を捨てるのは耐えがたいことでした。そこで彼らは、発酵がまだ浅いうちに壺を開け、魚と一緒に米も食べてしまうことにしたのです。

これが「生成(なまなれ)」です。何か月も待っていた寿司づくりは、数日から1週間ほどに縮まりました。

気の遠くなるほど長いあいだ捨てられ続けた米が、ついに初めて「食べられる存在」になった瞬間でした。

それでも人々は、まだ待ちきれません。江戸時代に入ると、さらに大胆な声が上がります。

「酸っぱくするために待つのなら、最初から酢を混ぜればいいじゃないか!」

こうして発酵を待たない「早ずし」が誕生しました。待つ時間から解き放たれた寿司は、一気に自由になります。魚を丸ごと使う姿ずし、箱で押す箱ずし、海苔で巻く巻きずし、油揚げの稲荷ずし。百花繚乱の時代が幕を開けたのです。

第4章 江戸の町に現れた男 ― 握り寿司の誕生

江戸の屋台で握り寿司を差し出す華屋与兵衛

19世紀初め、文政年間の江戸。

百万都市の通りは、夜明けから日暮れまで人であふれていました。地方から仕事を求めて流れ込んだ男たちは、稼いだ日銭を握りしめて屋台へ走ります。

「おう、早くしてくんな!」

江戸っ子は、とにかくせっかちでした。

そんな町で、箱ずしを担いで売り歩く一人の男がいました。華屋与兵衛です。

与兵衛は、売れ残った箱ずしを前に、悔しさを噛みしめていたかもしれません。

「箱ずしは押して馴染ませるのに時間がかかる。これじゃ、せっかちな客は待っちゃくれねえ。それに、ぎゅっと押すと魚のうまい脂が抜けちまう」

客を待たせず、魚のうまさをそのまま届ける方法はないのか。考え抜いた与兵衛の目に留まったのは、誰もが知っている、あまりに素朴なものでした。

握り飯です。

酢飯を手のひらでひと握りし、その上に江戸前の魚をのせる。これなら、注文を受けたその場で、客の目の前で出せる。

「へい、お待ち!」

握り寿司の誕生です。

それは江戸の町が待ち望んでいた、究極のファストフードでした。冷蔵庫のない時代なので、ネタは酢でしめたり、醤油に漬けたり、煮たりと、ひと手間をかけて仕上げられていました。一貫の大きさは、今の2〜3倍もあったといわれます。

屋台には人だかりができ、握り寿司は瞬く間に江戸中の評判になりました。

ところが、栄光のさなかに嵐が吹き荒れます。天保の改革です。贅沢を禁じる厳しい取り締まりの中で、多くの寿司職人が捕らえられたと伝えられています。

それでも、一度江戸っ子の胃袋をつかんだ握り寿司の火は、決して消えませんでした。

なお、握り寿司を生んだのは深川「松の鮨」の堺屋松五郎だとする説もあります。誰が最初の一貫を握ったにせよ、この革命を生んだのは、江戸という巨大都市のせっかちな熱気だったのです。

第5章 悲劇を越えて ― 江戸前、全国へ

昭和の回転寿司を楽しむ家族

長いあいだ、握り寿司は「東京だけの味」でした。それを全国へ運んだのは、皮肉にも二つの大きな悲劇でした。

1923年9月1日、関東大震災。東京は炎に包まれ、多くの寿司屋が店を失いました。行き場をなくした職人たちは故郷へ帰り、その地で静かに暖簾を掲げます。江戸前の技は、こうして日本各地に散っていきました。

そして、第二次世界大戦の敗戦。深刻な食糧難の中、飲食店の営業は厳しく制限されます。寿司屋は生き残るため、ある方法を編み出しました。

「お客さんの米1合を、握り寿司10個に加工します」

この委託加工という仕組みが、全国の握り寿司の形と大きさをそろえていったといわれています。

1958年、大阪。ある寿司店の経営者が、ビール工場で流れるベルトコンベアを見て、はっとひらめきます。「寿司を、流せばいい」

回転寿司の誕生です。寿司は「特別な日のごちそう」から、家族で笑い合う「日常の味」へと生まれ変わりました。

第6章 海の向こうへ ― 世界の「SUSHI」

アメリカの寿司バーでカリフォルニアロールを味わう客

旅は、まだ終わりません。

1970年前後のアメリカ。生魚にも海苔にもなじみのない人々のために、アボカドやカニカマを使い、海苔を内側に隠した一本の巻物が生まれます。カリフォルニアロールです。

健康ブームの波に乗って、寿司は世界中へ広がっていきました。いまや「SUSHI」は、世界のどこでも通じる言葉です。

そして2013年、「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録され、寿司はその象徴として、世界の食卓にその名を刻みました。

エピローグ:米が主役になった日

シャリを握る職人の手

2000年以上前、山あいの村で魚を守るために使われ、役目を終えれば黙って捨てられていた米。

その米は今、「シャリ」と呼ばれています。職人たちが温度に、酢加減に、握る力のわずかな加減に人生をかける、寿司の主役です。

「寿司はシャリで決まる」

誰にも食べられなかった米は、長い長い旅の果てに、ついにその言葉にたどり着きました。

次にレーンを流れてくる一貫を手に取るとき、ほんの少しだけ思い出してみてください。その小さな酢飯のひと粒ひと粒に、2000年の物語が詰まっていることを。

物語は、まだ終わっていません。次の一貫を握るのは、私たちの時代です。